スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

民主主義と資本主義経済はイコールではない 

 ◎「国家の運営は無限責任」

時代の正体〈59〉わたしたちの国はいま(3) 思想家・内田樹さんに聞く 「国家の運営は無限責任」

2015.02.01 12:30:00 カナロコ

 3・11をきっかけにこの国は変わると思っていました。市場原理に任せて経済成長を目指すのは無理だと気づき、相互扶助の精神に基づいた、もう少し手触りが温かく、暮らしやすい世の中になっていくだろうと思っていました。メディアでもそういう論調が多かったように思います。

 「絆」というのも決して薄っぺらな修辞ではなく、同胞は困っているときには助け合わなければいけないという「常識」がよみがえったように思いました。でも、震災半年後くらいから、そういう気分が拭い去るように消えて、「やっぱり金がなければ話にならない。経済成長しかない」という話にまた舞い戻ってしまった。

 国土が汚染され、半永久的に居住不能になるかもしれないという国民的危機に遭遇したにもかかわらず、またぞろ懲りずに原発再稼働の話が持ち出されてきました。理由は「電力コストの削減」、それだけです。国民は「命の話」をしているときに、政府は「金の話」をしている。この危機感の希薄さに私は愕然(がくぜん)とします。

 株式会社というのは18世紀の英国に発祥したまだ歴史の浅い制度です。その特徴は「有限責任」ということです。株式会社はどんな経営の失敗をしても、それが引き受ける最大の責任は「倒産」です。株券が紙くずになって出資者は丸損をしますが、それ以上の責任を社員(株主)は問われることがありません。

 もう一つの特徴は「コストの外部化」ということです。金もうけに特化した仕組みですから、できるだけコストは「誰か」に押し付ける。原発を稼働させて製造コストをカットし、新幹線や高速道路を造って流通コストをカットし、公害規制を緩和させて環境保護コストをカットし、賃金を抑制して人件費コストをカットし、「即戦力」を大学に要請して人材育成コストをカットする。コストを最小化し、利益を最大化するのが株式会社の仕組みです。

 東京電力がまさにそうです。福島第1原発で国土に深い傷を与え、10万人を超える人々が故郷に帰れない状態をつくり出しながら、誰一人刑事訴追されていない。日本国民は国土を汚染され、汚染された国土を除染するコストを税によって負担するというかたちで二重に東電の「尻拭い」を強いられています。

 しかし、有限責任の組織体というのは、実際にはほとんど存在しません。米大統領だったジョージ・W・ブッシュがそうだったように、国家を株式会社のように経営したいと公言する政治家がいますが、彼らは国家は無限責任だということを忘れている。国家の犯す失政は「じゃあ、倒産します」では済まない。侵略戦争で他国民の恨みを買い、揚げ句に敗戦で国土を失うというような失政をした場合、その「ツケ」を国民は半永久的に払い続けなければならない。

 沖縄が米軍基地で埋め尽くされているのも、北方領土が返還されないのも、中国や韓国から謝罪要求が終わらないのも、70年前の失政の負債が「完済されていない」と他国の人々が思っているからです。彼らが「敗戦の負債は完済された。もう日本には何も要求しない」と言ってくれるまで何十年、何世紀かかるかわからない。人間の世界は普通そうなのです。株式会社の方が例外的なのです。

  ■株式会社化

 株式会社の仕組みを国家運営に適用できると主張している人たちが依拠しているのは「トリクルダウン理論」です。新自由主義者の言う「選択と集中」です。経済活動をしている中で一番「勝てそうなセクター(分野)」にある限りの国民資源を集中させる。そこが国際競争を勝ち抜いて、シェアを取って、大きな収益を上げたら、そこからの余沢が周りに「滴り落ちる(トリクルダウン)」という考え方です。韓国は「勝つ」ためにヒュンダイ、サムスン、LGといった国際競争力のある企業に資源を集中させて、農林水産業や教育や福祉のための資源を削りました。競争力のないセクターは「欲しがりません勝つまでは」という忍耐を要求された。

 中国のトウ小平の先富論も同じものです。沿海部に資本と技術と労働者を集中させ、経済拠点を造りました。稼げるところがまず稼ぐ。その余沢が内陸部の貧しい地域にやがて及んでゆく。だから、今豊かな人間にさらに国富を集中することが、最終的に全員が豊かになるための最短の道なのだ、と。その結果が現在の中国の格差社会です。

 安倍政権の政治もその流れに沿ったものです。安倍晋三自身は凡庸な政治家であり、特に際立った政治的見識があるわけではない。けれども、「すでに権力を持っている人間に権力を集中させる。すでに金を持っている人間に金を集中させる」という新自由主義的な経済理論と資質的に大変「なじみのいい」人物だった。合意形成も対話もしない。トップダウンで物事を決める。政策の適否は「次の選挙の当落」で決まるので、選挙に勝てば完全な信認を得たと見なしてよい。これはすべて株式会社のCEO(最高経営責任者)の考え方です。それがビジネスマンたちに選好されたのです。

  ■消えた議論

 組織は一枚岩であるべきで、トップの指示に組織は整然と従うべきだというのは、いつのまにか日本の常識になってしまったようです。岡田克也氏が新代表に選ばれた民主党代表選の翌日のある新聞の社説ではこう書かれています。代表が決まった以上は党全体で岡田氏を盛り上げろと。党内でさまざまな議論があった以上、「議論をより深めて合意形成の道を探るべきだ」とは書かれていません。代表が決まった以上、そこに権限を集中させて、トップダウンに従うべきであり、そもそも民主党の支持率低下は党内の意見がまとまらなかったせいだ、と。

 そんなことがいつから常識になったのか。自民党はかつて田中角栄と福田赳夫が「角福戦争」と呼ばれる15年に及ぶ党内闘争を展開してきました。日本政党史上「戦争」という名がついた党内闘争はこれだけしかありません。けれども、そのとき党内に意思一致がないことを否として、「自民党は一丸となれ」と説いたメディアがあることを私は記憶していません。むしろ党内派閥抗争が疑似的政権交代であったがゆえに自民党は長期政権を維持できたのだという話になっている。

 党内の「戦争」はよいことで、党内不一致は悪いことだというメディアのダブルスタンダードを私はとがめたい。それはいつのまにか「政党もまた株式会社のような組織であるべきだ」という信憑(しんぴょう)を社説の書き手であるジャーナリスト自身が内面化してしまったということを意味しているからです。

 市民レベルから対話と議論を積み上げて手作りした民主主義は日本にはありません。残念ながら、民主主義は連合国軍総司令部(GHQ)に与えられたものです。だからもろいのだと私は思います。身銭を切って守らなければ民主主義は簡単に崩壊する。

 今、日本の諸制度から民主主義的なものが次第に放逐されつつあります。株式会社的な政治は一見すると効率的で、経済活動には有利なもののように見えます。けれども、繰り返し言いますが、株式会社は有限責任体であり、国民国家は無限責任体です。失政のツケは国民が何世代にもわたって払い続けなければならない。だから、すべての国民が、まだ生まれていない国民も含めて、国政の決定事項について「それは私の意思だ」という気持ちになれなくてはならない。

 独裁政治の最大の欠陥は、独裁者が劇的な失政をした場合に、国民たちの誰一人その責任を取る気になれないということです。国として行った政策選択について「それは一独裁者のしたことであり、われわれ国民は関与していない」という言い訳が国内的には通じてしまう。これは国際的には通りません。そして、国民国家の失政は無限責任であるにもかかわらず、それを受け入れる国民主体が存在しないということになる。

 国民主体というのは、先行世代の失敗をわがこととして引き受ける、あるいは同時代において自らは反対票を投じていても、合法的に選ばれた総理大臣がなしたことについては有責感を覚えるもののことです。しかし、独裁制では国民主体が立ち上がらない。

 民主主義というのは効率的に物事を進めるための仕組みではありません。失敗したときに全員が自分の責任と受け止め、自分の責任の割り当てについては何とかしよう、と気持ちが向かうようになる仕組みのことなのです。

【神奈川新聞】

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://seibanlocalunion.blog45.fc2.com/tb.php/8962-c61765bd

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。